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超少女まぶさび宇宙
 

1980年代も後半になるだろうか、「超少女身辺宇宙」*1という一文をものしたことがあった。その折の「身辺」を、このたび「まぶさび」に変えたく思ったのには、理由がある。まぶさび素材、すなわち透明素材と反射素材とが、いよいよ身辺にあふれるようになってきている、そのことにあらためて注意を促したいからだ。
 ともあれ、「まぶさび」という造語について、まず説明が必要だろう。それは、「まぶしさ」と「さびしさ」を掛けあわせて造った言葉で、20世紀の末あたりから使いつづけてきたものだ。透明素材を活かした「すきとおり」の美学と、反射ないしは反映素材を活かした「まばゆさ」の美学とが、19世紀の中頃から展開され、洗練されてくる、そのことに着目したのである。もっとも、「すきとおり」の美学にせよ、「まばゆさ」の美学にせよ、「さび」の心で受けとめてこそ、「まぶさび」といえる。そのためには、やはり、はかないもの、うつろいいくものへの眼差しを忘れてはなるまい。
 今回の展覧会に参加する二人の女性アーティスト、竹中美幸と寺田就子は、そのような観点から注目してきた作家である。寺田の作品については、21世紀になるかならないかの頃から知っているが、はっきりと覚えているのは、京都府美術工芸新鋭選抜展(京都文化博物館、2004年)で、審査委員として寺田を優秀賞に推薦したときのことだ。透明素材の使い方が、とても洗練されていたのである。竹中の作品については、VOCA展(上野の森美術館、2012年)で、その透明樹脂の使い方に目を奪われことを思い出す。あまりに感動したものだから、拙ブログ、マブサビアン上で勝手に、まぶさび大賞受賞者としてノミネートしたほどだ。*2
 さきほど、透明素材と反射素材とが別ものであるかのように語ってしまったが、大切なのは、透明素材も反射したり反映したりするという事実である。たとえばショーウィンドーを覗いていると、そこに映る自分に気づくことがあるはずだ。その場合、透かし見る向こう側と、映り込むこちら側とがダブって見える。しかも、そのダブり具合は少し移動するだけで、あっという間に変わったり消えたりもしよう。透明素材ならではのこの独特の奥行を、重奏する奥行と呼ぶことにしている。
 寺田は、透明素材とスーパーボールやビー玉などを組み合わせることで、精妙かつ繊細な視覚世界へと誘い込む。幻惑という言葉を、思わず口にしたくなるほどの重奏する奥行の戯れが、そこにはある。
 既製品を使うことの多い寺田と違って、竹中は支持体への直接的な定着にこだわりを見せる。たとえば透明なアクリル板に透明樹脂を定着させるといった具合にだ。ただ、そういった操作も、アクリル板を間をおいて重ね合わすなら、どうなるだろうか。手前の樹脂が向こうのアクリル板に影を落とし、樹脂の形と影の形とが、さまざまに重奏し合うのである。
 変化しつつある重奏に居合わせることで、時のたつのも忘れ、目も心も奪われる。寺田にせよ、竹中にせよ、そのような愉悦に誘ってくれるのだ。
 ただ、まぶさび素材といっても、それはそれで歴史的変遷がある。新たに開発され、使われるようになるものもあれば、その一方で、作られなくなったり、かつてほど使われなくなったりするものもあるわけだ。子供の頃、あるいは若年時に製作され使用されていた素材も、ふと気づくと、いつの間にか見かけなくなっている。そのような経験は、よくあることだろう。
 そのような素材の一つに、35ミリ映画用フィルムがある。このフィルムは、そもそも日本国内では数年前から製造されなくなったという。このところ、竹中が試みているのは、ほかでもないこのフィルムに光をとらえ、それらを重層的に配置することである。大学生の頃から、映画用フィルム現像所で仕事をしていたという竹中にとって、それは、なつかしい素材だったのかもしれない。
 寺田がよく用いるスーパーボールやビー玉、分度器などの文房具は、子供の頃からなじんだものが多いという。竹中が語ってくれたところでは、近くのセロハン工場の思い出が、今日の仕事に通じているかもしれないとのこと。いずれにせよ、二人それぞれに、なつかしむことが、新しい作品へと進展しているように思われる。おさな心の展開にこそ、文化の醍醐味があると看破したのは、稲垣足穂だった。超少女とは、おさな心の展開の女性ヴァージョンといってよい。シューコ・ワールドとミユキ・ワールドとが、さらに重奏すると、どうなるか。この秋が待ち遠しいゆえんだ。
 
*1 『美術手帖』1986年8月号、のちに拙著『トランスアート装置』思潮社、1991年、に収載
 
*2 ブログ「マブサビアン」2012年3月26日 http://mabusabi.blog.so-net.ne.jp/
ちなみに、まぶさび大賞とは、マブサビアン上で不定期に設けている賞で、もちろん賞金もない。
 

篠原資明  (プレスリリース等掲載 2015.9)
 

光のもてなしをありがとう
 

ドアを開けると、二人の商品が並んで迎えてくれた。さっそく、ただならぬ気配が漂う。かといって、火花を散らすとか、角を突き合わすとかいった険悪なものではない。そもそも二人には、光に対する傲岸な姿勢はない。いわば、光に対する優しい姿勢。だからこそ、どこまでも尽きることのないニュアンスの多様体、デリケートな差異の王国が、二人それぞれの世界に顕現する。今回の二人展に競合があるとすれば、それはいわば優しさと優しさとの関係のようなものだろう。
 竹中さんは、どちらかといえば、光を浸透させ、定着させることに、よりこだわりがある。寺田さんは、むしろ、光を透過させたり反映させたりすることに意をそそぐ。そういった二人ならではの独特のありようが、光のもてなし方の、あれこれを堪能させてくれた。 とりわけ、大きいほうのスペースは圧巻だった。フィルムを垂らした竹中さんの大きな作品と、透明な円盤をつり下げた寺田さんの作品。フィルムの垂直性と円盤の水平性の組み合わせが絶妙に感じられた。このスペースをいろんな角度から撮った写真を、後で見てみると、不思議な映り込みが床や壁面にあって、あっと思うこともしばしば。ともあれ、この展示スペースは、ぼくの一生の宝ものとして残りそうだ。
 あと、二人それぞれに、かすかではあれ闇の部分が濃くなっていたように感じたのは、ぼくだけだろうか。新たな展開への予感、そんな期待ももたせてくれる展覧会だった。二人には、そしてこのような展覧会の機会を与えてくれたギャラリーの方々には、光のもてなしをありがとうと記したい。
 

篠原資明  (展覧会後テキスト) 
 

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