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High-LightScene(ハイライトシーン)
 

光も風景も、いつも日常にあるのに見逃しています。今日、私は日々の傍らに降りそそいだ「光」を見たでしょうか。今日のハイライト(見所)ではなく、「ハイ-ライト」を。
本展「High-Light Scene」は、3人のアーティストの作品を通じて、日々見過ごしている光(ハイライト)にあらためて目を向けてみる展覧会です。
「ハイライト」には2つの用例があります。
ひとつは映像や放送番組、小説において最も重要な、または感動的な部分や場面、見せ場、見どころを指す「ハイライトシーン」です。映画やドラマ、演劇やコンサートからスポーツまで、「ハイライトシーン」を通じて私たちは物語や試合の内容、結果を知ることができるのです。転じて、ある一日または旅行や祭り、冠婚葬祭などにおいて印象的な出来事やエピソードを「ハイライト」と呼び、過去を想起・回想してもいるでしょう。「ハイライト」とは、過去を照らす光でもあるのです。
2つ目は、絵画用語としての「ハイライト」です。光のあたった最も明るい部分を白や黄色の絵具などで浮き立たせる「ハイライト」は、光沢やテクスチュアを再現する光学的な表現技法として15世紀のフランドル絵画において確立され、現在では写真やマンガまでハイライトが効果的に使われています。
以上のように、「ハイライト」には、一方では非日常的な見どころや見せ場、他方ではこの地上を照らす日常的な「光」を再現・模倣する言葉として、まったく異なる意味があるのです。
「ハイライト」は、岡田温司が「ハイライトの逆説」と呼ぶように、二面性があります。例えば、絵画における「ハイライト」は自然な光の再現描写ですが、ハイライトそのものは白や黄色の絵の具の塊りでしかありません。鑑賞者は人物や物質に反射・反映する「ハイライト」を見ているのか、絵の具の塊を見ているのか、ともすればハイライトは絵の具が物質として知覚されてしまう可能性を孕んでいるのです。この「ハイライト」の二面性は、「再現されたものと再現の媒体」、模倣と反模倣、フォルムとアンフォルムという対極的なイメージの揺らぎをもたらすことでしょう。それは今展における3人の作家にも通じるものです。
 大洲大作(1973年大阪生まれ)は、主に列車の車窓を過ぎる一瞬間の光のシークエンスを捉えた写真作品を制作してきました。大洲の「光のシークエンス」は光の「ハイライトシーン」でもありますが、本展では車窓とは異なる日常の「ハイ-ライトシーン」を捉えた未発表・新作のプリント写真およびスライドプロジェクションを出品します。スライド映写機の光源を通じてスクリーンに映し出される「光」は、「それは=かつて=あった」ハイライトの存在を明かすことでしょう。
 竹中美幸(1976年岐阜生まれ)は、水彩、アクリル樹脂を用いた平面・立体作品を手がけ、(半)透明を介在した光と影、重層的な視覚の揺らめき、瑞々しさを視覚化してきました。近年は映画フィルムを素材に、暗室の闇のなかでフィルムに光を留めた作品を制作しています。映画フィルムというシークエンスに刻まれた色彩は、展示空間に差し込む光(と影)とも合わさり、私たちそれぞれの「ハイ-ライトシーン」へと続いていくことでしょう。
中島麦(1978年長野生まれ)はストロークの集積・蓄積から生れる絵画やドローイングを制作してきました。近年は、ドリッピング、ポーリングによる偶然性を取り込んだ絵画制作を行なっています。中島の作為と無作為、偶然と必然、カオスとコスモスがせめぎ合う画面には、描く行為の痕跡と絵の具の物質性が刻まれた「ハイライトシーン」が形成されています。今展では、大洲大作の写真作品を素材とした新作ドローイング(5/4に公開制作)、および新作のキャンバス作品を出品します。
 今展で鑑賞者が見るのは、カメラが捉えた光(ハイライト/シーン)であり、過ぎゆく光や色彩をフィルムやキャンバスに留めた「ハイライトシーン」です。3人の作品が展示空間にどのような「光景」を見せるのか、新緑まぶしい5月の「High-Light Scene」をお楽しみください。
 

平田剛志  (プレスリリース等掲載 2016.5)
 

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